長野県の南端部に位置し、静岡や愛知との県境にある『天龍村』。面積の9割以上が山林にあたり、村の真ん中を流れる天竜川のエメラルドグリーンの水面には、四季折々の景色が美しく映し出されます。人口約1,000人。自然に寄り添うように生活を営む小さな村には、古くから“お茶づくりの文化”が根付いています。伝統というには、少し堅苦しいでしょうか。この村のお茶づくりは、日々の暮らしのなかで生まれていきました。
かたわらに流れる天竜川を見下ろすように拡がる茶畑は、春になると青々とした葉を茂らせます。25度の急傾斜に段々に連なる茶畑の様子はまさに絶景。中井侍地区には、いまだ手積みの農家も多く、『中井侍銘茶』と呼ばれる希少かつ高品質のお茶を育てています。今回は、そのうちのひとつであり、CAHIROでも取り扱う『やっさのお茶』についてご紹介します。
日常に根付いた、お茶がある暮らし
「天龍村で本格的にお茶の栽培がはじまったのは、今からたった50年ほど前のことで、それまでは村のほとんどが桑畑やこんにゃく畑でした。それらの商売に陰りが見えてきて、村をあげて新たな事業をはじめようと生まれたのがお茶です。だから現在、中井侍地区にいる11件の農家さん全員が一代目。意外と歴史は浅いんです。ただ、温暖で恵まれた環境から、各家庭で日常的にお茶を作っていたこともあり、慣れ親しんだ文化のひとつだったようです」そう話すのは、“やっさ”こと森下安男さんの畑で働く前田美沙さん。平均年齢81歳という超高齢化する農家たちのなか、唯一の若手農家です。安男さんの跡を継ぐ存在として、懸命にお茶づくりと向き合う彼女ですが、天龍村に来たばかりの頃は、お茶畑を横目にそれほど興味を持つこともなく、まさか自分がその栽培に携わるとは思いもしなかったといいます。
猟師からお茶農家へ
「もともと、同じ長野県内の蓼科で高原野菜を作っていました。独立してから数年、自然災害の影響で野菜の価格が安定せず、ひとりで農家をすることに限界を感じ、一度農業から離れてみたんです。知らない土地で新しいことに挑戦してみようと、狩猟ができる場所を探し、天龍村に行き着きました」3年前、地域おこし協力隊として、天龍村で暮らし始めた美沙さん。猟師の資格をとって、新しい生活が馴染み始めた頃、お手伝いとして訪れたのが、安男さんの茶畑でした。
「安男さんはそんなに口数が多い人ではないんですけど、作業をしながら、ぽつぽつと語る言葉が印象的でした。栽培方法だけじゃなく、土を育てる微生物の話まで、そのこだわりを教えてくれて、次第にわたし自身もお茶に興味を持つようになっていました」
最初は、人手不足を補う形で「少しでも役に立てたら」と始めた茶畑の手伝いでしたが、安男さんのこだわりと触れ合ううちに、本格的に栽培に携わりたいと気持ちに変化が表れていった美沙さん。ついには『やっさのお茶』の後継者として、猟師から再び農家に転身。現在は、高齢の安男さんを支えながら、お茶作りに励んでいます。
良質な茶葉を育む風土
地域の発展とお茶の共同栽培を目的にはじまった『中井侍銘茶』。その良質な茶葉は現在ブランド品として少量生産されています。この地域でのお茶の栽培は、古くは江戸時代から続く文化です。庭にあるお茶の木を、自宅で飲む分だけ摘んで、手もみしてお茶を作る。味噌や梅干しみたいに、各家庭の“お茶の味”がありました。一般的に、お茶の栽培に適しているのは、温暖で日照時間が長い地域といわれています。茶葉の成長が早く、大量生産に向いているからです。茶葉は日光に当たると、渋みの成分である『カテキン』が生成され、反対に日光に当たる時間が短いと、甘み成分の『テアニン』が多くなります。
周りを山に囲まれた天龍村は、日照時間が短く、春から夏にかけて毎朝、天龍川から立ちのぼる朝霧によって、さらに日の光を遮ります。大量生産には不向きですが、時間をかけてゆっくりと育った茶葉はやわらかく、甘く渋みの少ないお茶が生まれます。
すっきり甘い、浅蒸しの煎茶
中井侍で作るお茶はすべて煎茶。それも“超”浅蒸しの煎茶です。各農家さんの畑で摘まれたお茶の葉は、ひとつひとつ手作業で選別し、良質な茶葉のみ製茶場へ運ばれます。発酵させないように、摘まれてすぐの新鮮な茶葉のみ使い、製茶していきます。よく耳にする深蒸し茶は、60秒〜120秒蒸すのに対し、中井侍のお茶の蒸し時間はなんと“20秒”。
「かなり短いですよね。ふつうは蒸し時間が長いほど、苦味が少なくまろやかになりますが、ここで作る茶葉は、もともと苦味が少ないので、短い蒸し時間でも甘くバランスの取れた味わいかつ、茶葉本来のみずみずしい香りも残ります」と美沙さんは話します。
中井侍のお茶の特徴は、環境や蒸し時間だけではありません。
大規模生産をする場合、製茶の段階で茶葉はすべてブレンドされてしまいますが、小規模生産だからこそ、生産者ごとの製茶が可能に。コーヒーでも人気の『シングルオリジン(単一農園産)』で作ることで、茶葉の個性をより引き立てます。
中井侍では、安男さんが手がける『やっさのお茶』以外にも、『たけこのお茶』や『はまちゃのお茶』など、お茶にはそれぞれの生産者の名前がつけられています。(「ん」を言わないのは、この地の方言だそう)
どれも銘茶と呼ばれるにふさわしい上質な味を誇りますが、なかでもとくべつ手間をかけて作られる『やっさのお茶』には、こんなこだわりがあります。
無農薬・無肥料、土が育む自然の味
役場の職員だった安男さんは、仕事の片手間に夫婦で一緒にお茶を育て、奥さんが亡くなってからは、ひとりでとことんお茶作りと向き合うようになっていったそうです。「中井侍のお茶はすべて無農薬ですが、『やっさのお茶』は鶏糞や牛糞といった肥料すら使いません。どちらも化学肥料には含まれませんが、鶏糞は飼育環境によっては餌に添加物が含まれていたり、牛糞もホルモン剤が混ざっていたりするので、結果的に化学肥料を使うのと同じだというのが、安男さんの考え。その代わり使うのが『小麦ふすま』という、小麦を製粉するときに除かれる外皮部と胚芽の部分です。デンプン、タンパク質、繊維質、ミネラル分が多く含まれていて、土壌改善に役立ってくれるんです」
肥料を持って茶葉に栄養を与えるのではなく、余計なものは使わず、土から丁寧に育てるのが安男さんのこだわり。また、安男さんの畑は中井侍の中で、最も標高の高い700メートルの場所に位置し、寒暖差からさらに甘みの強いお茶が生まれます。
『やっさのお茶』のおいしい飲み方
天龍村ではどこの家庭でも日常的に飲まれている煎茶。渋みの少ない中井侍のお茶はどんな料理と組み合わせても食卓に馴染みます。もちろん、たっぷりあんこの詰まった和菓子もいいですが、お茶のお供として地元の駄菓子として愛されるのが「ゆぼし」。ゆずの皮を砂糖で煮詰め、その上からさらに砂糖をまぶしたものです。皮の苦味やゆずの香りが、すっきりとした煎茶とよく合うのだそう。
このように料理と合わせ、そのまま飲んでもおいしいお茶ですが、最近、美沙さんが考案したのが「煎茶のラテ」。粉末状にした茶葉を砂糖やミルクと混ぜると、華やかなお茶の香りが立つ、濃厚な味わいに。「他にはない甘い香りが魅力のやっさのお茶ですが、その違いは、挽いて飲むことでとくに際立ちます」と美沙さんは話します。
気になるラテは、CAHIROがお茶を提供する長野県上田市のブックカフェ『本屋未満』でも『やっさの緑茶ラテ』という名前で、飲むことができます。定番のあたたかい煎茶や、アイスティー、茶葉の購入も可能です。読書の合間に是非、その味を試してみてくださいね。